私は大学1年生の時、ブリジストン美術館で思いがけず藤田嗣治画伯の「猫のいる静物」を見て、 その物語性と迫真性に衝撃を受けた。その後パリで大使館勤務をしていた頃、 先輩から、「藤田嗣治画伯が急逝された。 ランスの藤田礼拝堂に行ってフレスコ画の大作を見てらっしゃい」と言われて、 家内と共に見に行った。その後私は弁護士に転身。なんと藤田君代夫人から、直接お声がかかって、 パリ南郊の公営墓地に埋葬されている藤田画伯のご遺骸を、ランスの藤田礼拝堂に再埋葬してほしいというご依頼が来た。 正に縁は異なもの味なものである。
藤田嗣治画伯夫妻 夫(1886~1967)と妻(1910~2009)は、1936年 結婚後、
1955年になって共にフランス国籍取得(その結果共に日本国籍自動的に喪失)。
夫は癌を宣告されていたにも拘わらず、ランスで平和聖母礼拝堂の建設を志し、
1913年以後のパリにおける輝かしい画歴(西洋画に浮世絵の画法を導入、
エコール・ドゥ・パリの中心的存在になり、シャガール、モジリアニと共に世界的巨匠の仲間入りを果たした。)
に符点を打つべく、藤田礼拝堂の建築デザイン、同礼拝堂のフレスコ画、
平和をモチーフとしたステンドグラス等を手掛け、癌の宣告にもめげず、
すべてを完成させた上で、急逝された。
妻は、夫の死期を早めることを懸念しつつ、
家事を行う傍ら絵筆を洗う等、甲斐甲斐しく創作活動を支え、
1968年チューリッヒの病院で夫を看取った。夫妻は今、スイートホームである藤田礼拝堂地下廟堂で永久の眠りにつく。
藤田嗣治画伯君代夫人の弁護士になったのが、1990年代で、実に20年近くお世話になりました。
夫人は嗣治画伯のことになると淀みなく、まるですぐ近くにおられるように
話されるので、その弁護士も、ついつい「隣家に住まれる、飄々としし、それでいて懐の深さを窺わせる愉快な画家」
の話を常時伺っている錯覚に陥りました。ご主人をしてその日記に「女房も同じ棺に入れて貰うつもりだ。
一人よりは寂しくないだろう。夫婦一身同体だから。」
と書かしめただけにさぞかし結婚30年間可憐な愛妻として大事にされたことでしょう。
藤田画伯(1886~1968)は、日本では知らない方もおられるようですが、
フランスでは間違いなく現在一番知られている日本人
[1959年藤田画伯がフランス国ランス市の大聖堂(世界遺産に登録されており、
フランスの歴代の王が戴冠式をおこなった教会)で、
夫人と共に洗礼式を行った際、200人以上の新聞記者が押しかけ、
エコール・ドゥ・パリ(シャガール、モジリアニ、スーチン等世界的巨匠が帰属する)
の根城であったモンパルナスの王と呼ばれほど高名であったと伝えられています。]
です。
藤田画伯は「レアリズム、詩情、西欧画の技法、繊細な東洋画の伝統的インスピレーションを組み合わせることにより、
パリで成功を修めた日本人画家」(フランスの代表的辞典
ル プチ ラルースから引用)で、日本人(1955年にフランス国籍を取得することにより、
日本国国籍法第11条により日本国籍を喪失)でありながら、世界的知られる代表的な西洋画家です。
だからこそフランス政府がその管轄下にある教会の地下廟堂に埋葬することに承認を与えたことはわかりますが、
その奥様が同じような国家的栄誉に浴しうるか若干疑問でした。夫人から、
ご自分も藤田礼拝堂地下廟堂に埋葬してもらいたいとの願いを聞かされたとき一瞬たじろぎました。
しかし、藤田画伯の前述の日記の記述をたてに交渉
窓口であるランス市と協議することにしました。
その間、墓碑
(その内容をお二人の軌跡を示す年月日、すなわち出生、結婚、洗礼、フレスコ画の完成、逝去の各年月日を記載したもの)
を建立することを提案してみました。
暫くして何らの訂正もなく同墓碑について同意が届きました。
この時、君代夫人が藤田画伯と同様藤田礼拝堂に埋葬されることが正式に認められることになりました。
ご夫人のお喜びは大変なものだと思います。藤田礼拝堂の壁画を描かれるとき、藤田画伯が癌を患われたことは分かっていましたから、
80歳の老画家にとって正に決死の創作活動であったと聞いています。
それを傍らで甲斐甲斐しく支えられた夫人の心は万感の思いであったと思います。
こうした中で完成した藤田礼拝堂はお二人にとって永遠のスイートホームです。
藤田夫人は2009年4月2日、98歳で老衰で亡くなられました。
その葬儀は桜が満開の四谷の聖イグナチオ教会でしめやかに行われました。
藤田夫人のご依頼に応じてその位牌を2009年4月25日藤田礼拝堂にお届け致しました。
藤田画伯のご遺体を公営墓地から2003年
(ご逝去35年後)に再埋葬した際ミサを催して下さったピロー神父に祝別式(benediction)をしていただきました。
(因みに夫人の骨壺は藤田画伯の棺桶の上に置いて頂くようお願いいたしました。)
その際ランス市が「藤田夫人に栄光あれ」というポスターをあちこちに
貼っていたのに吃驚しましたし、ラディオフランス(日本ではNHKラジオ)記者が待ち受けていて
突然インタビューされた(後日パリでも放送されたと聞かされました。)のにも度肝をぬかされました。
藤田夫人も藤田画伯の名声を守った偉大な方であったと実感されました。
ご冥福をお祈り致します。
■ VERSION FRANCAISE (フランス語PDFファイルが開きます)
64年11月2日 「・・・・・私の終生の舞台として私の計画はChapelle建立でありその壁画で符点を打ちたいと思ってる。 そうしてそのChapelleの中で眠るつもりだ。それは許してくれると思ふ。 その自信もある。たった一人でいいのだ。女房も同じ棺に入れて貰うつもりだ。 一人よりは寂しくないだらう。夫婦一身同体だから。ここで私は一人言ふのは夫婦二人の事を意味してるのだ。 そうして眠れる丈け眠らうと思ふ。 出来ればmuseeは作って死にたい。作る丈けの資金は残す。画丈けは散らさずにそこに残したい。 他のものは何んでも散り散りになっても惜しくもない。 画が残せるのは芸術家画家としての誇りだ。 自分を偽ってかいたものがないだけに、私には安心がある。・・・」
■皆様もパリからTGVで1時間で行ける
藤田礼拝堂(LA CHAPELLE FOUJITA)に是非一度はお訪ね下さい。
■「藤田礼拝堂」は、本来の画業であるフレスコ画、ステンドグラス画等のみならず、
子供の彫像ひいては礼拝堂そのものの建築デザインで構成される芸術作品の総体です。
従って、クリスチャン名がレオナール・ダビンチに敬意を払って Leonard(レオナール)とされたことも頷けます。
これら一連の作品の制作過程に興味のある方は是非藤田画伯の最終住居である、
エソンヌ県ヴィリエ・ル・バックル村に所在する
「メゾン・フジタ」Maison-atelier Foujitaまでお出かけ下さい。
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駐日フランス大使館がランス市に正式に照会したところでは、Post-scriptum 「追記」
2021年始めには藤田嗣治画伯美術館建設工事が始まり、2023年秋のオープンを目指すとのこと